小倉フェニックスでは、部長や店長、上司達にゴリゴリのパワハラモードで鍛え上げられました。これはDISりではなく、以後、しっかり役に立ちました。主観から客観の目線に変わりました。これはエンタメの必須項目です。
一方、DJ陣には気持ち悪いくらい優しくして頂きました。下の名前をちゃん付けで呼ばれて、手取り足取り丁寧に教えて頂きました。森チーフ、高橋さん、飯田さん、論手さん、田渕さん、企画室の部長にまで、大変お世話になりました。
機材の名前や操作から照明のカラー番号まで、ひとつも漏らすまいとしっかり勉強しました。いまだにカラー番号「PU-4」などを覚えています。ピンスポットでストリッパーを照らすと綺麗に浮き上がるあの色です。技術面では、左右の縦フェーダを上げて(クロスフェーダなどまだ無い)一方のフェーダを下げようとした時の「もうちょい我慢もうちょい我慢」という声を思い出します。選曲面も「今から雰囲気の良い曲でハメるね」「コウちゃんだったらどの曲を使う?」「23時に爆発させるから今はこの曲ね」と解説しながらのプレイはフロアコントロールの勉強になりました。基礎中の基礎から教えて頂いたことで空っぽのDJに育つことなく長く続けることが出来ました。あれだけの大箱、あれだけの機材や照明、あれだけの集客数、個人では絶対に出来ない経験でした。ありがとうございますファイト!(当時の社内挨拶)
福岡フェニックスのオープン日が決まった或る時、DJの論手さんがニコニコ顔で「六本木ボビーマギーDJの毎熊さんが入店するよ」「コウちゃんラッキーだったね」と言ったことを覚えています。誰だか知らずに最初はピンときませんでしたが、私は後に、毎熊(マイク)正明氏に師事することになります。
DJ回顧録(#005)宣伝カー
福岡フェニックス(PHENIX FUKUOKA)のオープンが1984年6月6日(水曜日)に決まりました。
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