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DJ回顧録(#018)この回顧録にパンチが無い理由
このブログは世界に公開されているわけで、私の顔にも(無駄な労力の)モザイク処理が施されています。時は移ろい、常識...
萩原誠氏「実録!博多ディスコ物語」へのアンサーブログを書くはずが… 個人の「DJ回顧録」へと変化しました。時効になった事や知られていない部分を中心に記しています。
このブログは世界に公開されているわけで、私の顔にも(無駄な労力の)モザイク処理が施されています。時は移ろい、常識...
フェニックスからシニフェへ移籍しました。中洲の北端から中洲の中央への距離は(数百メートルで)歩いて数分でしたが、環境...
シニフェに移籍して歓迎会をして頂いた日、出てきたモツ鍋が苦手だと伝えました。 モツ鍋が苦手だった理由は過去の事...
中洲のシニフェに移籍してしてからは驚きの連続でした。会社組織に組み込まれていた私は、自由と貧乏臭さとカッコ良さの...
どのタイミングでリンクしようかと考えていましたが(私のDJ回顧録も読んで頂ける方が増えてきましたので)皆さんにサ...
1986年、すっかり見習いではなくなって福岡フェニックスでのDJライフを超満喫していた頃、このブログの「DJ回顧...
フェニックス時代はとにかく勉強しました。働きました。面倒なことや苦しいこともウェルカムの姿勢で次々と片付けます。同期...
私がディスコに通いはじめた1970年代中頃から後半、福岡の人達はその場所を踊り場(おどりば)と呼んでいました。バ...
前回「選曲ノート」をポストしたついでに、選曲について少し触れておきます。 DJがプレイすると言ってもシチュ...
1980年代、駆け出しや見習いのDJの多くは選曲ノートを付けるのが通例でした。上級DJのかけた曲の並びを勉強する...
福岡フェニックスの営業の全DJパートを毎日録音していた私は、前日の録音を聴きながら自分の車で師匠を迎えに行きます。師...
私はDJだ!と宣言すれば、今日から貴方はDJです。今はそんな時代です。 しかし、我々がデビューした昭和の時...
当時(1980年代初頭)DJを目指す者の多くは見習いという手段を選択しました。 理由は以下の3つです。 ...
福岡フェニックス(PHENIX FUKUOKA)のオープンが1984年6月6日(水曜日)に決まりました。 ...
小倉フェニックスでは、部長や店長、上司達にゴリゴリのパワハラモードで鍛え上げられました。これはDISりではなく、...
日付を忘れてしまいましたが、DJ回顧録(#002)の次の日から念願の「小倉フェニックス」に入店してDJ修行がスタートしま...
DJを志す私は既に中洲(福岡)の雑居ビルで面接を受け、フェニックスという小倉(北九州)の大箱ディスコに内定してい...
萩原誠さんが毎週土曜日に更新している「実録!博多ディスコ物語」がドキュメンタリーで面白いです。ご本人が考えていた...
萩原誠さんが毎週土曜日に更新している「実録!博多ディスコ物語」がドキュメンタリーで面白いです。ご本人が考えていた...