福岡フェニックス(PHENIX FUKUOKA)のオープンが1984年6月6日(水曜日)に決まりました。
既に福岡に帰ってきてオープン準備をしていた私に「船舶免許を持っていますか?」と店長が訪ねました。フェニックスは(帆にロゴマークが入った)大きなヨットを所有しており、これで夏の浜辺に近づいて宣伝をするとのことでした。船舶免許を持っていない旨を伝えると、宣伝カー運転のサブに決まりました。
宣伝カーは日産サファリの逆輸入ヴァージョンで、ハイルーフにオーバーフェンダー、色は黄色、車体に大きなロゴマークが入っていました。日本に2台しか輸入されていない車をフェニックスが2台とも購入したとのことでした。カッコいいと思いましたが、内心、小倉に配車された白色の方が良いと思いました。
運転のサブということでしたが、ほぼ私が管理していました。昭和の年功序列ルールはそういうことです。カッコいいはずのハイルーフ&オーバーフェンダー仕様は(大きすぎて)当時の洗車機に入らず、全て手洗いという過酷な仕事を生みました。ステップに乗って天井を洗うと、流れた水は自分にかかりました。店の宣伝をする車が汚れていてはいけません。自分の車はいつも汚れていました。数年後、この車種は国内でも販売され、洗車機も大きくなっていました。
インターネットが普及していなかった当時、今では考えられないような宣伝方法がありました。(当時、実名や住所まで載っていた)電話帳で番号を調べて一軒一軒に電話を掛ける宣伝、気球に宣伝を吊り下げたアドバルーン、商店街を練り歩くチンドン屋、繁華街を駆け廻る宣伝カー等です。
管轄の博多警察署で拡声器を鳴らしての運転許可証(正式な名称は忘れてしまいましたが)を取得して大音量で音楽を流して福岡中を走り回ります。住宅街ではボリュームを下げ、繁華街ではボリュームを上げます。時々、拡声器で自分の声を発します。福岡フェニックスがオープンしてからは、宣伝カーを見つけた女子達が駆け寄ってきて(店舗所在地の中洲5丁目まで)タクシー代わりに使われました。
街宣の他にも、小倉本社で定期的に開催される会議に幹部を送迎したり、備品を小倉まで取りに行ったり、DJの師匠を送迎したり、DJ駆け出しの頃からフェニックスを離れるまで、宣伝カーとは深いお付き合いでした。