私はDJだ!と宣言すれば、今日から貴方はDJです。今はそんな時代です。
しかし、我々がデビューした昭和の時代は違いました。DJという業種がやっと世間に認知されはじめた頃です。少なくとも現場にお墨付きを頂かなくてはDJを名のれません。今風の言葉で言うとエビデンスです。既述の通り、私は見習いからスタートしました。
ある日、福岡フェニックスのオープンが決まり(その立ち上げに)東京六本木のボビーマギーでDJをしていた毎熊(マイク)正明氏が参加するという報告を受けます。何が何だか誰が誰だかわからぬまま、私はワクワクしました。いよいよDJとして本格的な力を付けられる予感がしたからです。
昭和の年功序列は激しく厳しく、一番下っ端の私が毎熊(マイク)正明氏のお世話をするという暗黙のルールが完成しました。弟子にしてくださいと言うこともなく、弟子になれと言われることもなく、暗黙のルールとその行動で自動的に師弟関係が完成しました。毎熊(マイク)正明氏は、福岡フェニックスを立ち上げ、安定させ、そのまま現場を去りました。そして(なんと)そのままDJを引退してしまいました。偶然そこに居た私を育てて。
DJ回顧録(#008)師匠との日々
福岡フェニックスの営業の全DJパートを毎日録音していた私は、前日の録音を聴きながら自分の車で師匠を迎えに行きます。師...