DJ回顧録(#013)引き抜き

1986年、すっかり見習いではなくなって福岡フェニックスでのDJライフを超満喫していた頃、このブログの「DJ回顧録」を進めるきっかけになった「実録!博多ディスコ物語」を毎週土曜日に更新されている萩原誠(はぎわらまこと)氏から電話が入りました。萩原氏は福岡のディスコ創成期から活躍されている先輩DJで、中洲カルチェラタンの頃にはお話をして頂けるようになっていました。改名前の萩原氏はオサムさんと呼ばれていました。電話の内容は(萩原氏が舵取りをしていた)中洲のシニフェに来ないか?というものでした。

お断りしました。会社内での出世など全く考えていませんでしたが、フェニックスの親会社は当時、100店舗の出店を目指して勢いよく稼働していて、この流れから離脱する気はありませんでした。フェニックスの動員も悪くなく、ブラック系のディスコとして浸透しはじめていました。また、フェニックスから近かったのでシニフェには遊びに行っていましたが、自分のカラーとは違うとも思っていました。

お断りしたことを忘れた頃、また連絡がありました。今度はチーフDJでシニフェに来ないか?というものでした。考えさせてくださいと伝えました。萩原氏は忘れてしまったかもしれませんが、私にとってチーフDJというのはキラーワードでした。フェニックスに不満はありませんでしたが野望はありました。また、北九州のDJ軍団の下っ端にいるより、福岡で生まれ育った私が頭を取れる店に移籍するのが自然な環境かもしれないとも思いました。

数日後、私の方から萩原氏に連絡して具体的な条件を聞き、フェニックスのチーフDJと店長に(直ぐに)打ち明けました。勿論、もっとしっかり考えるようにいう返答でした。店長からは一日に何度も考え直せと言われました。小倉本社から部長が飛んできて考え直すように言われました。翌日は違う部長が飛んできました。翌々日にも違う部長に説得されました。私のことなど相手にされていないと思っていたので驚きました。全力で止めにかかって頂いた会社の各幹部の皆さん、ありがとうございました。

2週間後、私は福岡フェニックスからシニフェに移籍しました

蛇足です。口約束で通用する時代でした。今となっては何の不満も後悔もありませんし(引っこ抜く側も長くやりましたが)、現代に生きる若い皆さんはしっかり契約書を交わして移籍してください。

どのタイミングでリンクしようかと考えていましたが(私のDJ回顧録も読んで頂ける方が増えてきましたので)皆さんにサ...

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